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ロシアタレントとの出会い#26

img551ブログNo.24の続き モスクワの地で撮影を始めたのは20年前。何回オーデションをしたのか... 多すぎて思い出すことが出来ない。約10年間は『美少女シリーズ』を撮り続ける。作品は出版社の雑誌のグラビアや写真集に発表した。この頃、編集者から『ロシアの巨乳美少女の企画を考えたらどうか』という案が出たのである。正直、この頃私はモデル探しに限界を感じていた。モスクワでの撮影をやめようと思っていた時だった。良いモデルが見つからなくて悩んでいたにも関わらずロシアのスタッフはモデルの良し悪し関係なく人数だけ集めてくる...これからは美少女だけでなく胸の大きいモデルも探すようにスタッフに厳しく伝えた。ところが何を勘違いしたのかスタッフは太ったモデルばかり連れてくる始末。オーデションに参加するモデル達はほとんどがファッションモデル...『ロシアでは胸が大きければデブしか居ない』とスタッフは言い張る。 何度もスタッフに『巨乳モデル』の説明するが全く理解しない。困り果てた末、私はスタッフに『モスクワでの撮影は今回で終わりにする』と宣言したのである。 いつになく私が怒りを抑えて真剣に話したのでスタッフも顔いろを変えてしばらく無言のまま立ちすくんでいた。10年目にしてスタッフの真剣な顔を初めて見たような気がする。その日の夜、10時過ぎにスタッフがホテルに2人のモデルの写真を持ってきた...誰が撮ったのか...本当にひどい写真だった。一人はレスラーのようなモデル、もう一人は服を着て地味な雰囲気の若いモデルだった。この写真では胸の大きさも判断できないとスタッフに言うと『明日、朝にモデルを連れてくるので是非見てから判断して欲しい』と真剣に言うので取りあえず若いモデルだけをテスト撮影することにしたのである。テスト撮影当日朝、8時30分頃、インツーリストホテルの前でモデルを待った。トヴェルスカヤ通りの舗道に立ってクレムリンを見ていると、100mほど先にある地下鉄の階段から若い女性が私の方へ向かって歩いて来た。写真とはまるで別人の色白で清楚な美少女が私の前に立った。『貴方はモデルさんですか?』と私は声をかけた。そのモデルは『ダー』と答えた。


ロシアタレントとの出会い#25

モスクワへ撮影に出かけて20年目。ロシア、ウクライナの紛争が治まる様子が無い...本当に困った... 現地スタッフから国内の状況を電話で知らせてくるのだが...当分行く事は出来ないようだ。今回はヌード写真は撮らない予定だった。可愛いロシアの美少女達を撮るつもりで現地スタッフにモデルを集めてもらっていた。集めた美少女達をいつ撮れるのか... この20年間に私が遭遇したテロ事件はいろいろある...事件がある度に国際空港の警備が異常に厳しくなり空港に入るのにかなりの時間がかかったのを記憶している。 2002年、モスクワ劇場占拠事件、2003年、モスクワ爆弾テロ、2004年、北オセチア学校占拠事件...等があった。北オセチア学校占拠事件の時は私が宿泊していたロシアホテルの前の赤の広場に約20万人の人が集まっていた。その光景は異常な様相だった。その時はモスクワの町が完全に封鎖されたのでホテルから一歩も外に出る事が出来なかった。この時よりも今のウクライナ紛争は解決する見通しがつかない...今回の紛争が終わらない限り安心してモスクワやキエフに行くことができないだろう。前にも書いたが緊張の連続...何が起こるか予想もつかない怖い国だが現地スタッフは『サトシさん、大丈夫、大丈夫!ロシアは地震無いから』と日本語で話す。彼らは国の紛争やテロの危機感を常にもって生きている。しかし、『モスクワは地震が無いのだから安全!』と思える彼らは災害に関しては楽観的なのかもしれない... img975img978  


お知らせ

出張撮影の為ブログお休みします。img172


ロシアタレントとの出会い#24

img6662回目オーデション以降、私は毎年、1~2回モスクワに行っています。 その後、オーデションを開くのですが目を引くようなモデルを見つけられなくなり...低迷の時期が続きました。私が最初モスクワの女性を見た時の感激は時間が経つにつれ次第に薄れていくようでした。私がモデルを選ぶ基準が高くなっていったのかもしれない。モデル撮影もしないで帰国する事も何回もありました。 当時はネットではなく現地スタッフが探してきたモデルやモデルエージェントが紹介するモデルから選ぶ方法でした。だから『当たり』より『はずれ』の方が多かったのです。『今回でモスクワに来るのは終わりにしよう』...と何回思った事か...。 当時の現地スタッフやモデルエージェントはロシアのモデルであれば日本人は『だれでもOK』をするものと勘違いしていたようだ。しかし私は頑としてモデル選びだけは絶対に妥協しなかったのです。モデルエージェントも現地スタッフも私が妥協しないので喧嘩になる事度々... 現地スタッフは皆、女性だったので怒りだすと凄まじかった。私が言葉をはさむ余地が無いほど...大声でヒステリックにまくしたてるのです。さすがの私も負けそうになりました。 私が探しているモデルは日本で働くタレントで無く写真のモデルなのだから...『グレードの高いモデルを探せ』と強く皆に教え込んだのです。良いモデルであれば良い仕事につながるのだからと何回も言い続けました。 彼らはモデルを連れてくればお金になると勘違いしていて理解させるのにかなり時間を費やしました。又、当時はロシアの女性が日本に働きに来ていて、彼女達からの都合の良い情報だけを聞き『日本人は金持ち』と思いこんでいるロシア人が多かった。彼らは私が日本人だから金持ちと思い続けていたのだから...困ったのは私です。しかし、現地スタッフがいなければ私もモスクワで仕事が出来ない。次の仕事につながるように彼らに報酬だけは支払うことにしていました。回を重ねる度にスタッフも私の気持ちを理解し始めて、かなりグレードの高いモデルを探して連れて来るようになりました。良いモデルを連れてきた場合、ボーナスを出したので彼らは次第に意欲的にモデルを探すようになりました。 『地獄の沙汰もカネ次第』世界共通かもしれない。 img792


ロシアタレントとの出会い#23

 2回目のオーデションの様子を話ししましょう。 場所は一回目オーデションをした場所と同じところですが人数が多い為、ダンス教室の大きなスタジオを借りました。スターリン時代に建てられた建物なので古いけれど趣のある立派な作り。今回はどんなモデルが来ているのだろうか...不安な気持ちで重々しい扉を開けて中に入った。うす暗い廊下を通っていくとその先に椅子に座っているモデル達らしき集団が見えてきた。どんな顔のモデルなのか良くわからない...本当に暗い...不安で近くに行きモデル達の顔を見回してしまった。何人か美少女の顔が見えた時はホッとした。モデルは60人ぐらい集まっていたのでスタジオに入ってオーデションを始める事にしました。 一回目のオーデションの教訓を生かして、この度は水着姿でカメラの前に立ってもらうことにしました。ストロボをセットし各モデルのアップと全身の写真を撮影し、良いモデルだけ残ってもらい再度写真撮影をし、4人のモデルを決めました。母親同伴のモデルもいて仕事が決まったモデル達は飛び上がって喜んでいたのが印象的でした。モデルが決まったにも関わらず他のモデル達は帰ろうとしないのです。マネージャーに『どうして皆帰らないの?』と尋ねるとモデル達は『仕事をしたい』と言って残っているのだとか... このオーデションを受ける為にバスと電車を乗り継いで3時間もかけて来たモデルもいました。モスクワ市内と言っても相当な広さです。東京のように交通網が発達していないのでここまで来るのが大変だったとか...。選ばなかったモデル達には本当にすまないと思いました。事前に写真選考してからオーデションで決めたかったのですが、今まであてにならない写真を多く見せられたので...自分の目で確かめるしか無かったのです。 私が選ぶモデルの条件は『若い』『顔がやさしい』『日本人好みの顔の子』特に『写真写りが良いモデル』が重要な決め手になります。この4人のモデル達は『ロシア美女探訪』の写真集に登場しました。 写真集を作る場合、通常は出版社が企画を立ててモデルやスタッフを手配し、カメラマンを決めて撮影に出かけます。取材費はすべて出版社が持ちます。 私の場合はすべて自費で撮影し、撮影した作品を出版社に売り込むという方法をとっていました。外国で生活した経験があったからこそ自分で何もかも出来たのかもしれません。失敗は許されないという緊張感と使命感は常に持って外国で仕事をしていました。何故このような方法を私がとったのか... 出版社を頼らずに自分の作品を自由に作ってみたかった... 作品が写真集になるまで時間がかかるので費用面では大変苦労しました。撮影場所を外国にした為、費用がかかるのは仕方ない事だが....渡航費、滞在費、モデル代、現地スタッフ費用、車や別荘の費用、etc.すべて現金払い...何もかも自分でしなくてはいけない...苦労は今も続いています。苦労の甲斐あってヒット作品や売れ行きの良い写真集が出来た時の喜びは格別です。だから20年も続けてしまったのかもしれない。 img791img765


ロシアタレントとの出会い#22

01モスクワから帰国してロシアモデル写真集の企画案を持って雑誌社を尋ねました。オーデションで選んだモデルの顔写真を見ながら編集長と打ち合わせをしました。後日会議の結果『ロシア美女紀行』として美少女達の写真集を制作することに決まったので、早速ロシアのアシスタントに私の希望するモデルを探すよう指示したのです。 2回目のモスクワは『ロシア美少女紀行写真集』の撮影でスタートしました。 1994年6月、夏の始めなので前回の冬のモスクワとはまるで町の感じが違って見えたのです。肌を大きく露出して個性的な服装で歩いている若い女性達がとても魅力的でした。最初のモスクワは冬の終わりだったので町は暗くて寒くて...良い印象はありませんでした。モスクワの夏は白夜なので夜遅くまで明るくてかなり長い時間撮影できるのでカメラマンにとって好都合でした。 ホテルはクレムリンに近いインツーリストに泊りました。モスクワの中央だったのでモデル達と会うのにとても便利な場所で、近くには国際電話局やマクドナルド一号店もありました。ホテルから日本に電話をかけると電話代があまりにも高くて驚きました。当時、ホテルから電話をする場合、電話代は先に払ってからでないと国際電話がかけられなかったのです。10分ぐらいの通話料金が一泊のホテル代と同じくらいでした。毎回電話代を前払いしなくてはいけないので不便で高くて...近くの国際電話局まで歩いて行って日本へ電話していました。国際電話局からかけた通話料金はホテルの通話料金の1割ぐらいでした。ホテルの中で利用する物はすべて高く...例えば日本で10円のコピー代がホテルでは一枚120円ぐらいでした。ホテルの近くにあるレストランは高くてまずいのでマクドナルドのハンバーガーを良く買って食べました。当時のモスクワはマクドナルドのハンバーガーは珍しくて高級品だったのです。ロケ先でハンバーガーを出すとモデル達は大喜びで瞬時にして無くなってしまうのです。私が食べる時には何も残っていないので次回は余るぐらい買って持って行くのですがやはり足りない状況でした。当時のモスクワはすべての物が世界一高いと感じました。地下鉄の入口には年老いたお婆さんが並んで物売りをしていました。人の集まるところには沢山の物売りが立っているのです。この頃のモスクワは大都市だと思っていたのですが人々の様子を見ると貧富の差が歴然としていました。私がホテルの前に立っていると男が寄ってきて『タバコをくれ』と言うのです。『ない』と言えば今度は『金をくれ』と要求するのです。小銭があったのでそれを渡すと『少ない』と言って投げつけるのですから...。この時、私はルーブルの貨幣価値がわからず小銭を渡したので男が怒ったのかもしれません...。わずかな滞在期間にも関わらず私はいろいろな場所で同じ経験をしました。日本では想像も出来ない事が日常茶飯事に起きている当時のモスクワでした。 0302


ロシアタレントとの出会い#21

モデルオーデションに話を戻します。ロシア人のモデルは年齢より老けて見えるので若く見えるモデルを3人選びました。他にも美しいモデルはいたのですが新鮮さが無かったので保留にしました。今回はテスト撮影と決めていたのでアシスタントの自宅を借りました。団地なので部屋は狭かったのですが、ロシアっぽい雰囲気の部屋が気にいりました。オーデションで選んだ3人のモデルには時間をずらしてアパートに来てもらいました。 最初のモデルはアンジェリーナ、背の高いスタイルの良いモデルでした、ファションモデルの卵なので決まったポーズは得意でした。彼女は水着の撮影後トップレスになってもらい撮影しました。彼女は美人なので次回撮影する事を決めました。 2番目はオルガでオールヌードを撮影しました。オーデションの時は少女っぽく見えたのですがヌードになると特別な色気を感じるモデルでした。彼女はアシスタントの友人で1時間ほどかけて撮影しました。撮影後アシスタントに『とても楽しかった。又撮って欲しい』と言っていました。 3番目のモデルは私が一番撮りたいと思った子でした。ところがヌードになるとバストは小さめ...ボディは太め...撮りながら『ちょっと失敗したなー』と後悔しました。次回オーデションは水着着用で慎重に選ぼうと思いました。 モスクワに滞在中竹書房の撮影チームが大掛かりなオーデションをして モデルを選び撮影していました。その情報はモデルエージェントから聞いていました。私は彼らが選ばない素人っぽいモデルを探すことに決めました。ポーズができなくとも新鮮なモデルを撮りたいと思って探しました。 8日間のモスクワ滞在でしたがモスクワのモデル事情が少し分かったのが収穫でした。これからモスクワに20年も通い続けるとは...。 下手な白黒のモデル写真を持ってきたマネージャーがいました。薄汚い格好でやる気の無いようなマネージャーでロシア語しか話せない男でした。彼とは相性が良かったのか...20年間私の仕事を手伝ってくれています。 img808img621


ロシアタレントとの出会い#20

img7301994年3月、私が最初にモスクワに行った時、街はすべて節電をしていました。ホテルや地下鉄などの電灯は60%しか点いていませんでした。計画停電もありストロボが使えなかったりして戸惑う事ばかりでした。このような状況の中で最初のモデルオーデションをしたのです。日本にいたタレント達がモスクワに帰国し、モデルエージェントと連絡をとり情報はあったのですが、初めてのモスクワでモデルがうまく探せるか不安がありました。 モスクワ郊外にあるバレースクールの教室で最初のオーデションをしました。煉瓦造りの古い建物で鉄の扉を開けて中に入った所は地下の廃坑のような所でした。急な階段を下りたところにあるスタジオまがいの小さな部屋にストロボをセットしモデルを待ちました。うす暗い廊下にモデルが立っていましたが暗くて顔が良く見えませんでした。ファッションモデル経験者と素人モデルが30人ほど集まりました。私の条件は初ヌードです。私は日本にいるロシアのタレントしか見ていなかったのでオーデションに来たモデル達がとても新鮮に見えたのです。各モデルと簡単な会話をし顔写真を撮って、結果は後で連絡することにしました。最初のオーデションには驚くほどのモデルはいませんでしたが若いモデル3人を選んで撮影することにしました。 オーデションが終わってしばらくするとアシスタントに報酬を要求されたのです。黙っていると仕事に関係ない人まで一緒についてきて報酬をくれと言うので困りました。当時、一か月の平均収入は300ドルと聞きました。私も初めての経験だったので初回は仕方なく彼らの要求通り支払ったのです。次回から、報酬に関しては仕事をする前に条件をつけて金額を交渉することにしたのです。私が良いモデルだと思うと彼らは足元を見てギャラを高くします。私としては売れるかどうかわからないモデルに法外なお金は払えません。最初はきっぱりと断ることが出来ない自分に腹がたちました。中途半端な態度はやめて『絶対に要らない』と断ると相手は態度を軟化させるという事もわかりました。日本のモデルエージェントと違って外国人に対して最初は法外な要求をするロシアのモデルエージェントのスタイルも徐々にわかってきました。その後も報酬の事では何度となく口論となりました。しかし私の提示した金額に相手が応じない場合、はっきりと断ることも出来るようになったのです。後日、モデル代を下げて再交渉の連絡が必ずあるのです。日本と違ってモデル代やアシスタントの報酬の基準価格が無いのでお金の交渉が最も大変なことでした。 後になってわかったのですが私が払うモデル代やアシスタントへの報酬は、ロシアの基準よりかなり高額だったらしいと聞きました。モデルとアシスタントが気持ち良く仕事をしてくれる事が良い作品につながる事だから...仕方ない...と思っています。


ロシアタレントとの出会い#19

モスクワに初めて行った時、日本では考えられない事を多く経験しました。 ホテル内にあるドルの両替所の事です。両替所の窓越しに女が指先で『金を早くいれろ』と指示するのです。足りない分ルーブルの古い紙幣を出したらその女が紙幣がきたないと突き返したのです。あまりに横柄な態度なので思わず『古くてもあんたの国の紙幣だろー』と私は怒鳴りつけてしまいました。 それからカメラ店でフイルムを買った時にも同じことを経験しました。フイルム代を古い紙幣で支払ったらきたない紙幣だからと店員が突き返すのです。私は頭に血が上りゼスチャーを交えて英語で文句を言いました。『この金はこの国で両替した紙幣だ!』と...店員は私の言った事を理解したのかどうかわかりませんが急におとなしくなってしぶしぶお金を受け取ったのです。彼らは相手の態度によって横柄になったり、強い態度で接すると仕方なくおとなしくなる事に気がつきました。 参考までにトイレの話もしたいと思います。 それは男子トイレのことです。立ち小便するのに位置が高すぎてつま先を立てて用を足さなければいけません。私などは短足ですからジャンプしても届きません。仕方なしに大便用のトイレを見つけて駆け込んだことがしばしばありました。つまり男子用立ち小便用の壁掛け小便器(壁掛けストール型)の高さが問題なのです。足の長い人には大丈夫だと思いますが殆どの日本人は困っているはずです。空港やホテルなど公共の場所は私が経験した限り不親切な便器でした。要するに大人から子供まで使用できる床置小便局[ストール型]であるべきだと思います。この頃のモスクワのトイレは快適な場所ではありませんでした。 一流のデパートのトイレに行きましたが大便の便器はすべて台座が盗まれていました。如何して用を足すのか考えても想像ができません。『どんなに立派な建物でもトイレを見ればその国の文化がわかり、紙はその国の経済を語る...』と教えられました。 私がモスクに行き始めた頃のトイレットペーパーは手でもんでやわらかくしてからでないと使えないほど厚くて硬い紙でした。トイレットペーパーは日本から必ず持っていくことにしています。img005


お知らせ

今回はオークションがあったのでブログお休みします。 オークション大盛況で終わりました。 ユーリアの人気は不滅です。 img049


ロシアタレントとの出会い#18

翌朝、ホテルのレストランに行って朝食を食べた時の事です。多くの客が並んでいるので何事かと思い見てみるとコーヒーに入れるミルクを買う為の列でした。コーヒーに入れるミルクが有料とは...2メートルもある背の高い男が手の指先ほどの小さなミルクを配っていました。この光景はロシア経済の現実を見せられたようで...ホテルの宿泊代、食事代は日本と比較すると法外に高い金額なのにホテルの部屋には粗末なベッド、決して美味しいと言えないような食事...ロシアのホテルはサービス業では無く外国人を止めてあげるだけの宿泊施設という雰囲気...又、ロシアに入国する時はビザの申請が必要...外国人は指定されたホテル以外は泊る事も出来ない。この頃のロシアは徹底した社会主義の国だったように思えた。町の店で買い物をしていてもほとんどの店員達は『ありがとう』とは言わなかった。ス-パーマーケットに行くと入り口に武器を持ったガードマンが立っていて手荷物は店のロッカーに入れてからでないと売り場に行けなかった。又、自分の手を使って品物をカートに入れて買い物ができるのは私が良く行くスーパー一ヶ所だけ...デパートで買い物をする場合は商品番号を店員に口頭で伝え、お金を先に払い、受け取り書と引き換えでないと商品を受け取ることができない。大きな品を買っても手提げ袋も無い...今は日本のスーパーでも見られる光景だが20年前のロシアではマイバッグ持参があたりまえだった。ようするにレジ袋の無料提供は全く無かった。10年前頃になって、レジ袋が有料で買えるようになったが...小言を言っていたらきりが無い。大国ロシアと日本との経済の格差はあまりにも大きかった。 img553img550


ロシアタレントとの出会い#17

 表に出ると私の名前が書いてあるボードを持った現地旅行社員が待っていました。彼の案内でタクシーに乗りました。国際空港にしては出口付近がうす暗く怪しげな雰囲気の男たちが屯していて、『タクシー』と大声で外国人旅行者を呼び止めていました。これも又国際空港のイメージとはかけ離れた異様な光景でした。彼らはもぐりのタクシードライバーで背景にはマフィアも絡んでいる場合もあるとか...聞きました。 タクシーは古びたロシア製...タクシーの窓から見えるうす暗い街灯に照らされた街並み、寂寥感あふれる街を通って40分、車はホテルの前に到着。 ホテルの入り口は大きな分厚い木の扉。木の扉を開けてホテルに入るとエントランスロビーはやたらと広く、スターリン様式の建物で部屋やロビーは伝統的なヴィクトリア様式風に作られていて荘厳さよりも特に古さだけを感じるホテルでした。 急いで受付に行きバウチャー(ホテルの宿泊証明書)とパスポートを提示しました。予約してあるのですぐに部屋のキーを渡されすぐに部屋に案内されるのが当然と考えていました。しかしいくら待っても応対してくれません。30分経っても対応しないので早くするよう催促しても急ぐ様子も無く...部屋が決まるまで一時間経っていました。とにかく呆れるというか...悪びれる様子も無く....『何か文句あるのか』と言いかねない態度には驚くばかり... 日本の旅行社で決めた部屋とはまるで違う部屋に決められたのです。すぐにクレームを言って交渉...最終的に部屋が決まるまで1時間半...怒りがいっぱい...長旅の疲れがどーと出てきました。旅行社に任せていたのでホテルのいい加減な状況を予想もしていなかったのでした。私は学生の頃からいろいろな国を訪れましたがロシアは特別な国....文化や価値観の違う国なのだと思うようにして怒りを抑えたのです。モスクワ到着初日の出来事として今でも鮮明に覚えています。 やっと決まった部屋で荷物の整理をしていると部屋の電話が鳴るのです。受話器を取ると女の声で『ハロー 女はどうですか?』... フロントの対応も遅くやる気の無い態度のおばさん達...本業以外の裏ビジネスなのか...この対応の早さには脱帽させられました。今でいえば個人情報の流出です。顧客名簿がある組織に流れる仕組みになっていたのでしょう。外国人男性客をターゲットにしているのです。夜の12時頃...ドアをノックする音で目が覚めました。ドア越しに太い男の声が聞こえるのです。返事をしないで耳を澄ませているとしばらくしてから人の気配が無くなりました。『このホテルはどうなっているのだ』と怒鳴りたくなりました。翌日ロシアの友人にこの話をすると友人はマフィアがコールガールの斡旋をしホテルと共存共栄しているらしい...だから『ドアは絶対開けない事』と言われました。 ホテルに入る時ガードマンがホテルカードとパスポートの確認をし厳重なチェックを受けて入ります。しかし夜のビジネスの女性達はフリーパスです。当時のロシアは何ともおかしな国...矛盾だらけの不思議な国に見えたのです。 img656img657    


ロシアタレントとの出会い#16

アシスタント第一号のナターシャから10代、20代前半のモデルの写真が沢山送られてきました。写真だけで判断するのは難しいので取りあえずモスクワに行くことにしました。 最初に訪れた日のモスクワは1994年3月末、街にはまだ雪が残っていて厳しい寒さの日でした。モスクワのシェレメーチェヴォ空港に着いた時の驚き...今でも忘れる事は出来ません。薄暗い陰気な建物の空港、入国検査官の目つきは猜疑心に満ちていて、やたら時間がかかる入国審査... 日本の空港では見る事が出来ない光景ばかりでした。日本ではどんなに混雑しても入国審査はかなりスムースに通過出来ます。 旅行者の面前で平然と物を食べたり,タバコを吸ったりしているモスクワ空港の係官...旅行者が列をなして並んでいると地味な制服を着た何人かの係官が後列に回り賄賂を要求して順番を優遇していたり...日常茶飯事の出来事なのかもしれませんが実に不愉快な光景でした。 総てのロシア人がこの様な人達と同じだとは思いませんが私の第一印象はこれが本当にロシアなのか...大国ロシアの現実の姿なのか.... 私は言葉で表現できないほど落胆し、この時はとんでもない国に来てしまったと悔やんだものです。入国審査を1時間以上も待ち荷物が出てくる迄40分以上待ちました。それでもいつもより早いとか... 日本人の若者は自分の荷物が出てこないので顔色を変えて困っていました。 係官は現場を見ていても助けようとしません。私も初めてのモスクワだったので彼を助ける事が出来ないので彼をインツーリストのオフィスに連れて行ったのです。時間はかかりましたが何とか荷物が見つかったので安心しました。 この時も「大変な国に来たぞ!」と実感...でした。 私は気持ちを引き締めて重たいバッグを転がしながら空港の外に出ました。img565 img557


ロシアタレントとの出会い#15

img041ブログしばらく休みました。ユーリアと出会うまでを思い出しながら続きを書いてみたいと思います。ブログNo.1に書いた文章と一部重複します。 私が如何にしてユーリア・ノーバをモデルとして発掘できたのか...私がなぜロシア女性をモデルとして撮影し始めたのか...ユーリア・ノーバにたどり着く迄、何年もかかりました。その当時のモスクワの様子なども思い出しながら書いてみます。 平成5年、夏ごろモスクワから多くのタレントが日本に働きに来るようになりました。私は写真を通じて彼女達と交流を深めていきました。彼女達は半年間滞在するとモスクワに帰国します。日本になじめないまま帰国するタレントも多くいましたが私は私のアシスタントができるタレントを探し続けたのです。 日本語が上手なタレントは通訳に、ビジネスに興味のあるタレントは現地でモデル探しを...と...いうように考えていたのです。日本に居ながら現地の情報を得る為のアシスタント通訳が私には必要でした。しかし、日本語が堪能なタレントはいませんでした。だから英語を話すタレントを見つけることにしたのです。英語を話せるタレントをナターシャと紹介しておきます。彼女は金銭欲が強く日本人の私にはちょっと手ごわい感じのタレントでした。後でわかった事ですが彼女は家族を養う為に必死で働く必要があったのです。私と縁があったのでしょう...日本にいた時、彼女は私のスタジオに頻繁に遊びに来ていたのです。だから彼女は私の仕事を良く理解していました。彼女が帰国後、私は頻繁にモスクワのナターシャに電話しました。何度も話をしているうちに彼女は次第に私の仕事への意欲がでてきたようでした。 偶然にも彼女の友人がモスクワでモデルをしていたりしたのでモデルエージェントとの情報も得る事が出来るようになりました。彼女は私の指示に従ってモスクワからモデルの写真を送ってくれるようになったのです。彼女は私がモスクワで仕事をするきっかけを作ったアシスタント第一号となりました。


お知らせ

スタジオの改装も終わりました。 スタジオ、写真事務室、作品倉庫も完成しました。 1976年夏にフォトスタジオ木津をオープンしてから早いもので約40年経ちました。 人物写真。コマーシャル写真、あらゆる分野の仕事をこのスタジオで撮影したのです。20年前の活動の場所はほとんど日本でした。週刊ポスト。週刊現代。週刊プレイボーイ。平凡パンチなどの雑誌のグラビアの撮影で多くのモデルやタレントが訪れました。スタジオの近くには山や川、森、温泉などがあるので撮影場所としては恵まれていました。 一般撮影のお客さまも年月を重ねるごとに多くなり、七五三や成人式、家族写真と家族の歴史の写真も撮り続けてきました。 家族写真を30年以上撮り続けている家族もこのスタジオで毎年撮影しています。 撮影した家族の歴史が倉庫に沢山保管されています。 多くの人が訪れてくれたスタジオでしたがこの度、改装も終わり新たな気持ちでスタートしたいと思っています。 20年前より撮影場所をを国内からロシア。モスクワに移動して仕事の幅を広げています。 ロシア女性も撮影し続けています。 撮影の集大成を考えて40年間の作品、フイルムの整理、を始めています。 今、目の前に積んである作品。フイルム、プリントの膨大な量に驚きを隠せません。どう整理するか考えている間に次の仕事の依頼が来るのですから... 私にとって最も不得意な整理整頓が今後の大仕事です。


お知らせ

スタジオと事務所の工事が予定より延びてしまっています。 今月末までには終わる予定です。 img017


お知らせ

只今、スタジオ改装中です。 8月20日からスタジオ内部と事務所を改装しています。 撮影済みフイルムも膨大な量になり収納スペースを広げなくてはならない状況になってしまい事務所も改装することにしました。 長年忙しくて手をつけられなかった未編集のポジフイルムが沢山あります。 今まで撮影したポジフイルムなどすべてデジタル化したいと思っています。 フイルムの整理にどのくらい時間がかかるか想像もできませんがもう一度良い作品を選んでみたいと思っています。 img2


ロシアタレントとの出会い#14

02『JAPAN  HOLIDAYロシア女子大生ヌード アンナ&ユーリア』平成6年5月5日に発売されました。 ロシアから日本に来るタレント達やクラブに通うお客の間でもこの写真集は大変評判となりました。 面白い話があります。 クラブで一番人気のアンナはガードが固く、一人ではお客さんと同伴しなかったそうです。お客と海水浴に行っても水着にならなかったとか.... 店では露出度の低い洋服ばかりを着ていて真面目なイメージしかなかったアンナがヌードになったのですから...店の客の間で話題になり大騒ぎになったのです。この頃にはアンナは帰国していて二度と日本に来る事はなかったのです。 水着にもならなかったアンナが何故ヌード写真を撮らせたのか... 何故?...どうして?...アンナが帰国後、店は大騒ぎになりました。 アンナに会いたくて毎日通ったお客もプレゼントを送り続けたお客もショックを受けた事間違いなしです。 この写真集が出版された事がきっかけで日本に来た多くのロシアのタレント達は私のスタジオに遊びに来るようになったのです。東京に来ていたロシアタレントからも写真を撮って欲しいと頻繁に電話がかかってくるようになりロシアタレントとの交流の輪が広がり始めました。 ロシアの情報集めや現地での活動の為の基盤づくりを考え始めたのがこの頃です。モスクワの詳しい事情を知るのには現地のタレント達の協力が必要だと考え、多くのロシアタレントを無料で撮影することにしたのです。ロシア人の持っている国民性や習慣などの情報も得る事が出来、日本にいながらモスクワで協力してくれるスタッフも探せるという私独自のルートも出来始めたのです。 私が撮ったタレント達の写真がモスクワのタレント事務所やモデル事務所で評判になり私がモスクワに行く前にすでにカメラマンとしての実績が評価されていたのです。


ロシアタレントとの出会い#13

img004最初はスペイン風のドレスを着てもらい徐々に服を一枚づつ脱いでもらった。ポラロイドで撮影しアンナ達に確認させながら撮影を進めたのです。今はデジタルカメラなのですぐに確認できます。当時は確認する為にはポラロイドカメラで撮影しプリントを出して確認するしかなかったのです。自分達の写真を繰り返し見ていくうちにアンナもポーズの工夫が出来るようになり良い写真が撮れるようになったのです。 彼女達が最も喜んだのは着物でした。一度は羽織ってみたかったと話していた二人。気にいった衣装の時の彼女達の表情が違うことにこの時気がついたのです。ロシア人好みの衣装がどのようなものなのか...ロシアに行ってから数年目にしてわかったような気がします。相棒のユーリアは最後までアンナの足を引っ張ってしまいましたが...何とかアンナとユーリアの3日間の撮影は無事終了しました。 残りの一日はアンナだけを連れて埼玉の貸しスタジオで撮影をしました。 撮影にすっかり慣れたアンナは楽しそうにおしゃべりしながらカメラの前に立てるようになっていました。クラブで働いている時よりも楽しかったと言ってくれたアンナ。日本に来た時より体重が6キロも増えたとか...少し気にしていたアンナ。お尻の形はロシア人独特のずっしりと重い感じ...ボディも肉感的で健康的で初々しい...と感じながらシャッターを押していた私です。撮影しながらロシア人のプライドの高さ、白い肌の色、肌の質感、など学ぶことが出来た4日間だった。意志の伝達、言葉、コミュニケーションこれからロシアに行って撮影しようと思っている私にとってこの撮影は良い経験となりました。 『JAPAN  HOLIDAYロシア女子大生ヌード アンナ&ユーリア』の写真集撮影無事終了。


ロシアタレントとの出会い#12

img048ロシアモデル第一号アンナ18歳、木津智史初めてのロシアモデル写真集、 19年前の事でした。撮影初日、二日目は軽井沢のスタジオ付別荘を借りて撮影スタート。三日目の撮影は私の自宅付近の日本家屋を借りて二人を撮影。 私の良い写真を撮る為の心得.... 撮影場所の環境や状況を出来るだけ早く把握する事。 どこでどの衣装を着せてどのような雰囲気で撮るか...事前に考えておかなければならないのであるが私の場合は撮影寸前の思いつきで撮ることが多い。 道具や小物、ある物は何でも利用して撮る。 決められた撮影時間内にどれだけ沢山シャッターを押せるか...撮影をスムーズにする為には、モデルにわがままを言わせないようにする...『決して怒らず』をモットーにしている。往々にしてモデルはわがまま...いかにスムーズにモデルが気分良く仕事をしてくれるかが重要な事。 カメラマンの腕も重要だが良いモデルがいなくては良い作品を作れない。 プロのモデルは初めての場所、初めてのスタッフであってもすぐに溶け込んで要求通りの仕事が出来る。素人のモデルは撮影前からスタッフや周囲の状況が気になって自然な表情も自然に立つことさえも出来ない。 ユーリア・ノーバもデビューの時はかなり緊張していたのを覚えている。 不思議なことに彼女の写真はすべて使えるのだ...やはりユーリア・ノーバは特別なモデルである事は間違いない。 私は撮影に集中したいのでスタッフは少ない方が好きである。プロのモデルより素人のモデルを撮る事の方が難しいけれど私は経験のないモデルを撮ることが好きである。何故なら自分のイメージ通りの写真が撮れるからだ。美しさ、初々しさ、清潔感、...etc....どのように表現できるか...カメラマンの腕の見せ所でもある。 モデルがリラックスできるように撮影前、私の作品を見せながらおしゃべりをすることも多い。特にヌード撮影の場合はモデルとのコミュニケーションがとれなければ良い写真を撮ることが出来ないからだ。私を見た第一印象は?...とモデルに聞くと『ちょっと怖そう』とか『マフィアみたい』...?とか言う。 『私の風体から想像してこんなきれいな写真を撮る人とは思えない』とほとんどのモデルが言う。勿論、アンナにはいつも私の作品を見せていた....それなのに写真集の撮影となると緊張と警戒心で笑う事も出来ないアンナとユーリアだった。緊張が和らぐまで少し時間がかかってしまった。


ロシアタレントとの出会い#11

img991アンナの写真集出版が決定したので帰国前に急いで撮影しなければならなくなりました。クラブのオーナーに彼女達が店を休む許可を急いでとりました。 彼女達の滞在期間は6カ月、残り2か月前のことでした。 この写真集が出版されたのは20年前。当時私は主に日本人モデルを撮っていました。その頃、私は自分で企画した『女子大生ヌードシリーズ』『そっくりさんヌードシリーズ』などのヒット作品を雑誌に発表していました。 K出版社から女子大生ヌード写真集を出版したところ大変話題になりテレビや週刊誌で取り上げられたのです。K出版社で始まって以来の売り上げを記録したので続けて第二段も出版が決まりました。 その後、アンナの写真と企画書を出版社に持っていきました。ロシア人ヌードは珍しいという事とアンナが新鮮であると言う事で出版社も写真集を作ることにしたのです。 写真集が決まったので早急に撮影場所や衣装など手配したのです。 アンナ一人撮影する予定でしたがアンナがどうしても一人は嫌だというのでアンナの友人、ユーリアも同行してもらいアンナと一緒に撮影することにしたのです。主役のアンナよりも友人のユーリアの方がわがままだったので撮影はいろいろ難しい事がありました。アンナの写真集だったのでアンナばかり撮っているとユーリアのきげんが悪くなるし...調整するのが大変だったのです。ユーリアの嫉妬心が撮影の邪魔をしたのです。彼女達はモスクワで子供のころからの同級生...ユーリアが日本に行くというのでアンナも一緒に日本に来たのです。彼女達は常に一緒にいる事が安心と考えていたようです。彼女達にとって外国に来る事は初めての経験でした。しかし私は良い写真を撮らなくてはならないのですから二人の機嫌を損なわないように終始気を使って撮影をしたのです。アンナは写真を撮られることが好きだったので問題は無かったのですが主役でないユーリアは思うようなポーズをとろうとしなかったのです。例えばヌードになった時、いつも胸を手で隠したり下半身を両手で押さえて自然なポーズのヌードを撮らせなかったり...どうしても撮影がスムーズにいかないので最後はアンナだけで撮影することに同意してもらいました。アンナは積極的に撮影に協力してくれたので何とか良い作品となったのです。 最後にギャラを受け取る時アンナは本当にうれしそうに受け取ったのです。しかし友人のユーリアは大金にも関わらず喜んだ様子は見られなかったのです。 彼女達の六カ月分の給料と同じ金額を支払ったのですからユーリアはアンナに感謝するべきだったのではないだろうか....


ロシアタレントとの出会い#10

01ユーリア・ノーバとの出会いを今すぐ書いてほしいと思うファンもいると思います。クラブのことやロシア人タレントのことを細かく書く事には理由があるのです。 当時、私はロシア人女性の国民性や性格を理解してからロシアに行って撮影をしたいと思っていました。当時はロシアの情報がほとんど無かったのでクラブに来るロシア人タレントと交流する事は私にとって良い経験になったのです。外国人タレント全員が写真に特別に興味を持っていたので私にとっては好都合でした。彼女達を撮る事でいろいろな撮影技法をテストすることが出来、いかにして美しく撮るのか....次第に分かってきました。 英語が得意だったアンナは私のスタジオに来てロシアの話やクラブでの出来事を良く話してくれました。アンナはクラブのタレントの中でも一番の美人でした。私が彼女を撮りたいと思った最大の理由は素人っぽく純情なイメージだったからです。今思うと美人像もスタイルの基準も時代によって変わるのだなーと感じています。私は今、巨乳モデルばかりを探していますが当時はアンナのバストぐらいでも大きく感じたものでした。しかし時代が変わりモデルのグレードはかなり高くなってきています。 025か月が過ぎ、帰国まで残り一か月になった頃、アンナに写真集の仕事をしないかと尋ねました。撮影もヌードですから説明するのが大変で...時間をかけて説得しました。一人では恥ずかしいというので...彼女が仲良くしているユーリアも時間をかけて説得したのです。このユーリアとユーリア・ノーバとは違います。ロシアではユーリアと言う名前はとてもポピュラーな名前です。当時も今も外国から日本に働きに来ているタレント達はお金を稼いで国に帰りたいという思いが強く...最終的にはモデル代...アンナにとってはまとまった臨時収入となるので心が動いたようです。 私が撮りたいモデルはアンナだけでしたが...タレント同士問題が起きないようにクラブにいる外国人タレント全員に声をかけたところ、アンナ以外二人のモデル志望者がいました。しかし2~3日経つとその二人は断って来たのです。私はアンナ以外他のタレントは皆断るだろーと最初からわかっていたのです。彼女達のプライドを傷つける事無く万事穏やかにモデル選びが出来たのでした。


ロシアタレントとの出会い#9

3カ月お休みしてしまいました。 ロシアタレントとの出会いからユーリアに出会うまでを今月から又書いていきます。毎月1日、15日更新します。 ロシアタレントも3カ月が過ぎるころになると日本の生活に慣れて、近くにあるスーパーマーケットなどに買い物に出かけるようになっていました。 常連の日本人の客と同伴しながら生活用品を買ってもらうタレントもいました。タレント達はクラブの近くのアパートに住んでいたので店に出る前私のスタジオに立ち寄るのです。若いアンナは写真が好きでいつもスタジオに来ては自分の好きな写真を見ていました。アンナは英語を話せたので私に店のことや自分の事をを良く話すのです。彼女は18歳の時、大学を休学し日本に来たのです。日本での仕事は好きではないと言っていました。時々モスクワに早く帰りたいと寂しそうに言うのです。アンナは写真を撮られている時が一番楽しいらしくいつもスタジオに来ていました。アンナを何回も撮影していると若いロシア人女性の気質やポーズの取り方など特徴が分かってきました。私はアメリカに留学していた頃はアメリカの若い女性を多く撮っていました。アメリカ人の開放的な雰囲気と違ってロシア人気質は凛としていてプライドだけは高かったように見えました。撮影しているとモデルを通してロシアの古い共産主義的な生活が垣間見えました。私がロシア女性を撮るきっかけはアンナを撮ることで始まったのです。


お知らせ

ユーリアとソフィーの新作DVD準備の為、しばらくの間お休みします。img537


ロシアタレントとの出会い#8

8タレント達は日本の気候と住居に慣れるのが容易ではなかったみたいです。特に夏の暑さはつらかったようです。部屋の中にゴキブリがいるといつも大騒ぎしていました。モスクワでは見たことが無かったようです。ロシアでは『タラカン=ゴキブリ』という言葉があるので場所によってはゴキブリも存在していたのでしょうが...。嫌いな日本人を彼女達は『タラカン』と呼ぶようになったとか...笑うべきか...でも笑ってしまった。 日本の蚊に刺されると痒いけれどロシアの蚊は痒くないとか...本当なのかどうか...ロシアでは痒み止めの薬も無いと言っていたので本当かも知れない。このような些細なことでも国によってはこうも違うのだと興味深く話を聞いている私でした。 彼女達も冬の寒さには慣れていて強いと思ったのですが日本の冬は寒くて耐えられないと訴えていました。暖房があっても『寒い寒い』と震えているのです。ロシアの冬は暖房が利いているので家の中はとても暖かく快適に過ごせるとか...暖房に関しては生活出来るように国が管理しているようです。冬に暖房が無ければ皆生きていけないほどロシアの冬は厳しい寒さなのです。


ロシアタレントとの出会い #7

7彼女達が子供の頃、町から急に食べ物が無くなった事があり、それは凄まじい光景だったと目に涙を浮かべて話していました。ロシア社会主義が崩壊した頃です。『日本人は裕福で幸せ』と彼女達は良く言いました。彼女達には『日本人は皆お金持ち』に見えたのでしょう。当時、日本は景気も良かった時だっただけに彼女達はそう思い込んでしまったのでしょう。後に書きますが『日本人はお金持ち』...日本人というだけで私もロシアで『お金持ち』と思われて大変困りました。ロシア崩壊前、崩壊後の国を見ながら生きてきた彼女達です。『ロシアは日本より大きな国で素晴らしい』と言いながらも日本に来て働かなくてはならない彼女達の複雑な心境...お金持ちの日本でいっぱい稼いで帰ろうという意欲は半端ではないと感じました。


ロシアタレントとの出会い #6

タレント達は皆、大学に行っていたのでプライドはかなり高かったと感じました。 日本と違ってロシアはそれほど受験は厳しくないとか... しかし一流大学、モスクワ大学を受験するとなると家庭教師をつけて勉強しているみたいと言っていました。やはりエリートコースに進むには学力プラスお金が必要なのはどの国も同じなのもしれない。6 タレントたちは私のスタジオに来てはピアノを弾いたり歌を歌ったり... 彼女達は譜面無しでピアノを上手に弾くのです。 『子供の時、学校で教わっただけで覚えたの』と言うのですがとても上手だった。 この頃のロシアはとても貧しく、生きていくのが精いっぱい...贅沢など夢...と語っていた彼女達。 ピアノをいつでも弾ける...私のスタジオは彼女達のオアシスだったのかもしれない。


ロシアタレントとの出会い #5

ある時クラブのオーナーが水商売の鉄則を語った時がありました。5 『ブスのタレントは3日で慣れるが美人のタレントは3日で飽きる』と言った言葉が印象深く今でも時々思い出します。店としては性格がやさしく楽しい女性を欲しかったのでしょう。 最初に来た7人のロシアタレントの中で1番人気だったのはラリッサでした。 彼女は背が一番低く笑顔と愛嬌だけのタレントでした。日本語も一番下手でいつも店がオープンする時間ギリギリに店に入るおっちょこちょいのタレントだったのです。 滞在期間は六ヶ月。六ヶ月間店で働いていると人気タレントの順位が入れ替わります。一番器量の悪い背の小さなラリッサが売上げ一番、美人のアンナは2番でした。最初に人気があり目立ったタレント達は次第に飽きられて人気は落ちたそうです。


ロシアタレントとの出会い #4

4_1 私は外国人のモデルを数多く撮影していたので自然に彼女たちと親しく交流が出来たのです。私は当時週刊誌や月刊誌のグラビア(平凡パンチ、週刊プレイボーイ、週刊ポスト、etc.)の仕事をしていたので人物写真撮影は特に自信がありました。彼女達が気にいる写真を数多く撮ってあげました。 当時モスクワではスタジオ写真はとても高価だったので、彼女達は撮影する機会も無かったのでしょう。こんなに写真を撮ってもらったのは生まれて初めてと彼女達はとても喜んでいました。 その後、ロシアタレントは店に出る前に私のスタジオに頻繁に遊びに来るようになったのです。 私のスタジオにはピアノがあるのでピアノを弾きたくて訪れるタレントもいました。

4_2 アンナ18歳 4_3この頃から私はロシアから来るタレントの相談役になっていきました。 世の男性は彼女たちと会う為に、店に来てお金を払わなくては話す事も出来ないのにです。 私の所にはいつもきれいなロシア女性が遊びに来ていたので多くの男性は私を羨ましがっていました。彼女達の足は長く肌が真っ白なので町を歩くと皆が振り返るほどとても目立っていました。ナイトクラブの動く広告塔でした。 私が撮った宣伝写真は彼女たちの間で評判になり、この頃から多くの外国人が私のスタジオにポートレート撮影を頼みに来るようになりました。


ロシアタレントとの出会い #3

平成5年夏にロシアタレントが7名来日しました。 クラブのオーナーはタレントの宣伝写真を撮って欲しいと言うので私は快く撮影することにしました。 3 オーナーもかなり張り切ってタレントたちに指示を出していました。店内のステージの周りに4台大きなストロボをセットしたのでタレントたちはもう映画スターになったような…ちょっと興奮気味でした。 最初は店の中央にあるステージの上で彼女達にロシアの民族衣装を着てもらい、いろいろなポーズをして宣伝写真を撮りました。彼女達もプロのモデルのように次から次へとポーズを変えてカメラの前に立っていました。外人は日本人と比べてポーズを取るのがとても上手で素人とは思えないほど出来栄えの良い写真になりました。 慣れてくると何も言わなくても自分たちでポーズを作り撮ってほしいとリクエストをするのです。撮影の予定時間をオーバーして店の開店時間まで撮影を続けたのを覚えています。彼女達にまた写真を撮影するから今日は終りと、オーナーが日本語と英語を使って懸命に話していました。 撮影が終わっても彼女達の興奮は収まりません。彼女たちはこれから6か月間このクラブでエネルギッシュに働きお金を稼いで国に帰るのだろう... おかしなことですがオーナーは全く英語もロシア語も話せないのです。今から思うとお互いに英語もロシア語も日本語も全く話せない者同士がなぜ仕事を続けられたのか不思議です。 日本語の辞書を毎日見て勉強するタレントと日本語になじめないタレントに分かれました。 驚くことに彼女達は瞬く間に日本語を理解することができるようになっていきました。 その後、来日したタレントの中からロシアで私の撮影のアシスタントになった人もいます。


ロシアタレントとの出会い #2

クラブをオープンするのには、まずロシア人タレントを決めることが第一です。 オーナーは東京のプロモーターから送られてきた写真を見てタレントを決めなくてはなりません。 これは写真のモデルを決める時と似ています。 クラブ経営も写真撮影の仕事も共通点があります。美しい女性無くしては成り立たない職業なのです。 モスクワのタレント事務所について少し話しましょう。 日本のクラブ経営者はきれいなロシア女性を集めてビジネスにつなげたい... ロシアでは経済が悪いのでロシアのタレント事務所は日本にタレントを派遣してビジネスにつなげたい... 当時両国の考えが一致したようです。 タレントたちは手数料を取られても日本に来て働きたいと思ったのです。 ロシアの大使館関係者の協力を得てロシア女性が日本にタレントとして入国出来るようになりました。 最初の頃はモスクワ市内の女性を求人広告で募集したり、モデル事務所からモデルを集めてオーディションをしたりしていました。 当時は東京の一流のクラブにタレントを選ぶ優先権があり、前述のオーナーが選んだタレントが必ず彼の店に来る保証はありませんでした。 幸運にも最初に来た7人のタレントは美しい女性が多かったのです。 プロモーターは最初6人のタレントを派遣するという取り決めをしたのですが実際に来たのは7人でした。 契約以外で来たタレントがアンナと言う18歳の大学生でした。 このおまけのタレントが一番美人で店のナンバーワンになったのです。 これもオーナーの運の良さだったかもしれません。 後で書きますがこのアンナは私がロシア女性を撮影するきっかけになった女性第一号です。 とにかくロシア人女性がタレントとして日本に働きに来ると言う事は考えてもいなかった事です。


ロシアタレントとの出会い #1

私が如何にしてロシアでユーリア・ノーバを発掘できたのか、ロシア巨乳美少女ユーリアがどうして誕生したのか、私がなぜロシア女性に惹かれたのか、 どうしてモスクワで撮影を始めることになったのか、最初のきっかけを話したいと思います。ひとっ飛びにユーリアの話になってはロシアを理解することにはな りません。ユーリア・ノーバにたどり着くまで何年もの年月がかかりました。私が初めてモスクワへ行ったのは1994年でした。ユーリアに出会うまでいろい ろな出来事がありました。私はこの時代を思い出しながら日記を書いていきたいと思います。 当時、ナイトクラブを何軒も経営している知り合いが近所にいました。 私は海外で生活したことがあるので、彼は私の外国での話を聞きたくて時々スタジオに遊びに来ていました。当時、日本のクラブで働いているのはフィリピンタ レントがほとんどだったと思います。フィリピンタレントの宣伝写真を撮ってほしいと彼から撮影の依頼もありました。この、日本で外国人タレントの宣伝写真 を撮った事がきっかけでロシアで撮影をすることになるとは、そのときは考えてもいませんでした。 平成5年頃、彼はロシアの女性を日本に呼んでクラブをやりたいと、私に相談をしてきました。彼のビジネスも頭打ちで彼は起死回生を考えていたのでした。当時日本は景気も良かったので、私は彼に是非やったほうが良いとアドバイスしたのです。 当時ソ連は社会主義国だった為、簡単に行ける国ではなかったので特に興味があり、私はロシアに行ってみたいと考えていた時期でもありました。 20年前は日本にロシアの女性やフィリピン女性がタレントとして多く来日していました。またこの頃、マスコミの影響で東京でロシアンクラブが大評判になっていました。 平成5年夏に彼はロシアンパブ(ロシア女性のナイトクラブ)を近所にオープンしました。このナイトクラブは連日満員で大盛況となり店の前がロシアンストリートと呼ばれるようになりました。